江崎道朗(日本会議専任研究員)
収まらない「ヴェノナ」の衝撃
第二次世界大戦前後の時期に、
アメリカ政府内に多数の
ソ連のスパイが潜入したことを暴いた「ヴェノナ文書」の公開以降、同国内では「
ルーズヴェルト政権は
ソ連や
中国共産党と通じていたのではないか」という古くからの疑念が、確信へと変わりつつある。当然、当時をめぐる
歴史観の見直しも進んでいる。しかも、そのピッチは近年、急加速していると言っていい。
これら機密文書が次々と公開され、その研究が進んできた結果、
ルーズヴェルト大統領の側近であった
アルジャー・ヒス(1)[以下、主要人物に通し番号を附し、共産党員または協力者と思われる人物は傍線を引く]を始めとする200人以上のスパイ(あるいは協力者)が政府官僚として働いていたことが立証されつつあるのだ(
中西輝政監修『ヴェノナ』PHP研究所)。
確かに彼らは
ソ連や
中国共産党に好意的な発言をしていたが、
ソ連のスパイだと断定する証拠も当時は見つからなかった。しかも、
ソ連のスパイだと名指しされた人物が次々と自殺をしたため、リベラル派のマスコミは、「
マッカーシー上院議員らが根拠なく
言論弾圧を行った結果、自殺に追い込まれた。これは現代版の
魔女狩りで許されることではない」などと、保守派批判を繰り広げたのである。
以後、
ソ連や
中国共産党に好意的な言動を理由に批判することはタブーとなってしまった。
アメリカでも戦後、
ソ連や中国に親近感をもつリベラル派にマスコミは支配され、保守派は肩身が狭かったのだ(リー・
エドワーズ著『
アメリカ
保守主義運動小史』
明成社)。
それだけに、ヴェノナ文書が
アメリカの知識人たちに与えた衝撃は大変なものだった。「国連創設にまで関与した
アルジャー・ヒス(1)らが
ソ連のスパイであるはずがない」と断言していたリベラル派の学者やマスコミは沈黙を余儀なくされた。
そしてその翌年の2005年5月7日、
ブッシュ大統領は
ラトビアで演説し、
アルジャー・ヒス(1)が関与した
ヤルタ協定について「史上最大の過ちの一つ」だと強く非難したのである。
後に「
ヤルタ体制」と呼ばれるようになった戦後の国際秩序の出発点を、こともあろうに当事国であった
アメリカの
ブッシュ大統領が正面から批判したのだ。これに対してロシアの
プーチン大統領は5月7日付仏紙
フィガロで、「米英ソの三首脳がナチズム復活を阻止し、世界を
破局から防ぐ国際体制を目指して合意した。その目的に沿って国連も結成された」と、
ヤルタ協定について擁護するなど、国際政治に少なからぬ反響を巻き起こした。
急増する歴史見直しサイト
さらに、この数年で、ヴェノナ文書などを引用して
ソ連や
中国共産党を支持していた
ルーズヴェルト政権の政府高官や知識人たちを告発するサイトが急増しているのである。
その代表的なものが、2006年11月に開設された「コンサバペディア」である。ヴェノナでスパイとされた人物の一覧やそのプロフィール、他で明らかになっている
ソ連のスパイたちのリストとともに、相次ぐヴェノナ研究の新たな成果を紹介し続けている。
この中では、従来の
東京裁判史観とは違って、「日米戦争を引き起こしたのは、
ルーズヴェルト政権内部にいた
ソ連のスパイたちではなかったのか」という視点まで浮上してきている。
東京裁判史観からの脱却をめざす我々にとって、絶好のチャンスを迎えているのだ。
意外なことに、
アメリカの
反日運動の背景に
ソ連のスパイたちの暗躍があることに当時から気づいていた人物がいた。日本外務省の若杉要ニューヨーク総領事である。若杉総領事は昭和13年から15年にかけて
アメリカの
反日運動の実態について詳細な報告書をたびたび作成し、外務省に報告していたのだ。
これら若杉総領事の報告書とヴェノナ文書、
コミンテルン文書等を併せ読むことで、
ソ連・
コミンテルンの対米工作の一端が見えてくる。その実態を最新の研究成果を踏まえ、順を追って再現したい。
世界共産化とは、全世界の資本主義国家すべてを転覆・崩壊させ、
共産党一党独裁政権を樹立することである。ではどうやって世界共産化を成功させるのか。
レーニンは、「敗戦革命論」を唱えた。敗戦革命論とは、資本主義国家間の矛盾対立を煽って複数の資本主義国家が戦争をするよう仕向けると共に、その戦争において自分の国を敗戦に追い込み、その混乱に乗じて
共産党が権力を掌握するという革命戦略だ。
要するに、
共産主義革命のため、国家間の対立を煽って戦争を引き起こし、自国を敗戦に追い込もうというのだ。なんとひどい発想だろうか。日本にとって不幸だったのは、この謀略の重点対象国が、
日露戦争を戦ったわが日本と、世界最大の資本主義国家
アメリカだったということだ。日米二つの資本主義国の対立を煽って日米戦争へと誘導することは、
コミンテルンにとって最重要課題であった。現に
レーニンは1920年、世界共産化を進めるため
アメリカを利用して日本に対抗し、日米両国の対立を煽るべきだと主張している。
◇第2段階
人民統一戦線を構築せよ
1931年、アジアで
満州事変が勃発し、
ソ連は日本と国境線を挟んで直接対峙することになった。
日本の台頭に恐怖を覚えた
コミンテルンは1932年2月、「
満州に対する日本の攻撃と反ソ
大戦争の準備との密接な関係」を理解していない外国の同志たちを厳しく叱責し、「断固たる大衆動員が必要である。何よりも、あらゆる資本主義国の鉄道を通り、あらゆる資本主義国の港から日本に向けて積みだされる武器と軍需物資の輸送に反対しなければならない」として、日本と戦う中国を支援するとともに、対日
経済制裁を起こすよう各国の
共産党に指示した(クリストファー・アンドルー他著『
KGBの内幕・上』
文藝春秋)。
この指示を受けて
アメリカ
共産党は1933年、「日本の侵略に抵抗する中国人民の闘い」を支援する世論を形成して
アメリカの力で日本を押さえ付けるべく、「
アメリカ中国人民友の会」を設立した。同会の会長には左翼系雑誌『ネイション』の編集者
マックスウェル・スチュアート(4)が、機関誌『チャイナ・トゥデイ』編集長には
フィリップ・ジャフェ(5)がそれぞれ就任した。二人とも当時
ソ連との関係を否定していたが、ヴェノナ文書で
ソ連のスパイだったことが判明している。
この1933年にドイツでは
ヒトラー政権が成立。日独という二つの反共国家の台頭に脅威を感じた
ソ連は世界戦略を大きく転換する。1935年にモスクワで開催された第7回
コミンテルン大会において、従来の「
階級闘争・世界
共産主義革命路線」を修正し、日独という
ファシズム国家と戦うために
アメリカやイギリスの資本家や
社会主義者とも手を組んで広範な人民統一戦線を構築するよう各党に指示したのである。
一方、
ルーズヴェルト大統領も1933年、ハミルトン・フィッシュ下院議員ら保守派の反対を押し切って
ソ連との国交を樹立した。
ちなみに
スメドレー女史(7)は生前、
ソ連との関係を否定してきたが、
コミンテルン文書の公開によって、1935年9月2日付で
プラウダー(6)が
コミンテルンの指導者
ディミトロフに出した手紙が見つかり、
スメドレー女史(7)が
コミンテルンからの資金援助を受けて欧米向けの対外宣伝活動に従事していたことが判明している(H・クレア他著『
アメリカ
共産党と
コミンテルン』五月書房)。
◇第3段階
シンクタンクIPRの乗っ取り
この人民統一戦線を理論的に支えたのが、当時
アメリカ最大のアジア問題の
シンクタンク「太平洋問題調査会(IPR)」だった。
IPRは、アジア太平洋沿岸国のYMCA(
キリスト教青年会)の主事(教会の牧師にあたる)たちが国際理解を推進すると共に
キリスト教布教を強化する目的で1925年、ハワイのホノルルで汎太平洋YMCA会議を開催した際に創設された。
ロックフェラー財団の資金援助を受けたIPRは
アメリカ、日本、中国、カナダ、オーストラリアなどに
支部を持ち、2年に一度の割合で国際会議を開催、1930年代には世界を代表するアジア問題についての
シンクタンクへと成長することになる。
このIPRを、
アメリカ
共産党は乗っ取ったのだ。YMCA主事としてインドや中国で活動した
エドワード・カーター(8)が1933年に事務総長に就任するや、中立的な研究機関から日本の
外交政策を批判する
政治団体へと、IPRは性格を大きく変えていく。
カーター事務総長(8)は1934年、IPR本部事務局をホノルルからニューヨークに移すと共に、政治問題について積極的に取り上げることを主張し、機関誌「パシフィック・アフェアーズ」の編集長に
オーエン・ラティモア(3)を抜擢した。
後に
マッカーシー上院議員によって「
ソ連のスパイ」だと非難された
ラティモア(3)はIPRの機関誌において日本の中国政策を「侵略的」だと非難する一方で、
中国共産党に好意的記事を掲載するなど、その政治的偏向ぶりは当時から問題になっていた。
にもかかわらず、
ラティモアを擁護し続けた
カーター事務総長(8)は
FBIの機密ファイルによれば、自ら「
共産党のシンパだ」と認めており、その周りには
共産党関係者が集まっていた。一九二九年にカーター(8)の秘書としてIPR事務局に入った
フレデリック・ヴァンダービルド・フィールド(9)は有名な資産家の息子で、その左翼的言動から「赤い百万長者」と呼ばれていた。
IPRは一九三九年になると、
冀朝鼎(11)、
陳翰笙(12)ら
共産党員の手で、
ハーバート・ノーマン(10)著『日本における近代国家の成立』など日本の中国「侵略」を批判する「調査シリーズ」というブックレット集を次々と刊行し、欧米諸国の
外交政策に多大な影響を発揮したばかりか、
アメリカの対日
占領政策の骨格を決定することになった。
何故ならIPRは戦時中、太平洋方面に派遣される陸海軍の将校向けの教育プログラム作成に関与すると共に、『汝の敵、日本を知れ』といった啓蒙用
反日パンフレットを軍や政府に大量に供給したからである。
◇第4段階
中国共産党を支持する雑誌『アメラジア』を創刊
1936年12月、中国で
西安事件が起こり、
中国国民党の指導者
蒋介石は、
中国共産党と共に抗日戦争を開始する方向へと政策転換を強いられた。この
国共合作を支援する
アメリカ世論を形成すべく、「赤い百万長者」の
フィールド(9)は1937年3月、『チャイナ・トゥデイ』編集長
ジャフェ(5)と共に、
中国共産党を支持する雑誌『アメラジア』を創刊する。
その編集部事務所は、IPR事務局と棟続きに置かれ、IPR機関誌の編集長
ラティモア(3)、
冀朝鼎(11)、そして元在中国宣教師で
外交政策協会研究員の
T・A・ビッソン(13)が
編集委員となった。戦後GHQの一員として
財閥解体などを担当した
ビッソン(13)もまたヴェノナ文書によれば、
ソ連のスパイであった。
『アメラジア』を創刊した
ジャフェ(5)や
フィールド(9)は1937年6月、
ラティモア(3)や
ビッソン(13)と共に訪中し、作家の
スメドレー女史(7)とも合流して
中国共産党の本拠地である延安を訪問、
毛沢東、
周恩来らにインタビューをしている。来るべき
日中戦争に際して、いかなる諜報工作を展開するのか、綿密な協議が行われたに違いない。
◇第5段階
「ルーズヴェルト大統領一族を取り込め」
1937年7月、盧溝橋事件が起こると、
アメリカの反
ファシズム団体は一斉に、
反日親中運動を開始した。当時、全米24州に109の
支部を持ち、会員数400万人を誇る「
反戦・反
ファシズム・
アメリカ連盟」は11月に全米大会を開催し、その名称を「
アメリカ平和民主主義連盟」と改め、「平和」「民主主義」を守るという名目を掲げることで、広範な
アメリカ民衆を結集しようとしたのだ。
更にこの「
アメリカ平和民主主義連盟」のもとに、全米22都市に
支部をもつ「中国支援評議会」を設置し、日本の中国「侵略」反対のデモや対日武器禁輸を国会に請願する活動も開始した。
在ニューヨーク日本
総領事館が作成した昭和15年7月付機密文書『米国内ノ
反日援支運動』によれば、「中国支援評議会」の名誉会長に就任したのは、ジェームス・
ルーズヴェルト夫人だった。
ルーズヴェルト大統領の実母だ。名誉副会長には中国政府の
胡適(こてき)元駐米大使が、常任理事にはマーシャル陸軍
参謀総長(2)の夫人がそれぞれ就任した。夫の理解がなく夫人がこのような
反日組織の理事に就任するとは思えないし、前述したようにマーシャル陸軍
参謀総長(2)は戦時中に「
南京大虐殺」を非難する
反日映画の製作を命じており、その思想傾向はよくよく検証する必要がありそうだ。
他の常任理事には、
フィリップ・ジャフェ(5)や
冀朝鼎(11)ら「
ソ連のスパイ」が就き、事務局長には
ミルドレッド・プライス女史が就任した。ヴェノナ文書によれば、
プライス女史は、その姉妹である
マリー・プライス女史(著名な評論家ウォルター・リップマンの秘書)と共に、
アメリカの内部情報を
ソ連に報告していたスパイであった。
ヴェノナ文書が公開された現在だからこそ、彼らが
ソ連のスパイであることも分かっているが、当時の一般の
アメリカ人たちの目には、
ジャフェ(5)も
プライス女史も中国救援に熱心な
人道主義者と映っていたに違いない。中国支援評議会の活動に協力した
アメリカ人は約300万人とも言われているが、
アメリカの大多数の国民は見事に騙されていたわけだ。
「南京」宣伝の背後にゾルゲ
この
反日国民運動と連携して、日本軍の「残虐行為」を告発する
反日宣伝も欧米で活発になっていく。仕掛けたのは、
蒋介石率いる
中国国民党だった。
中国国民党は1937年11月、中央宣伝部のもとに国際宣伝処を設置し、国際的な宣伝工作を開始した。その一環として国民党が仕掛けたのが、欧米の新聞記者、宣教師、大学教授を使って対日批判を繰り広げることであった。その成果の一つが、イギリスの
マンチェスター・ガーディアン紙特派員のH・J・ティンパーリが1938年6月、ニューヨークやロンドンで出版した『戦争とは何か』であった。
南京事件を最初に世界に知らせたと言われているこの本は
中国国民党国際宣伝処の要請と資金提供のもとで書かれた宣伝本であり、ティンパーリ自身も中央宣伝部の顧問だった。この宣伝本を分担執筆したのは中国YMCA主事のジョージ・フィッチ(14)とマイナー・ベイツ南京大学教授だが、ベイツもまた中国政府の顧問だった(
東中野修道著『
南京事件 国民党極秘文書から読み解く』
草思社、北村稔著『
南京事件の探求』文春新書)。
因みに、この動きにどうやら
コミンテルンも関与しているようだ。楊国光著『
ゾルゲ、上海ニ潜入ス』(
社会評論社)によれば、1937年7月、盧溝橋事件が起きた直後に
リヒャルト・ゾルゲはドイツの新聞記者として盧溝橋を訪問。その後、日本の軍用機に相乗りして南京に飛び、南京陥落直後の12月中旬、「
南京大虐殺」を目撃したという。南京のドイツ大使館は当時、ドイツ本国政府に「日本軍は殺人マシーンとなって市民を殺害している」という報告書を提出しているが、この報告書に
ゾルゲが関与している可能性があるのだ。
◇第6段階
スティムソン元国務長官を利用したロビー活動
舞台を
アメリカに戻そう。1937年12月から翌年の1月、日本軍占領下の南京にいたジョン・マギー牧師は、戦地の模様を映画フィルムでひそかに撮影していた。このフィルムは、
中国国民党の顧問だったティンパーリの指示で「侵略された中国」と題して編集され、YMCAによる中国支援・日本非難キャンペーン用の映画として
アメリカ各地で上映された。
この映画を南京から
アメリカに持ち出したのが中国YMCA主事ジョージ・フィッチ(14)で、彼は38年4月、首都ワシントンDCにおいて
ヘンリー・スティムソン元
国務長官(15)や、スタンレイ・ホーンベック
国務省極東部長(16)ら要人と会見している。何のために? 恐らく
ルーズヴェルト政権に対するロビー活動を行う組織の創設について相談したのではなかったか。
なぜならフィッチ(14)らが発起人となって38年8月、ニューヨークにおいて「日本の侵略に加担しない
アメリカ委員会」が設立され、対日禁輸措置の実施などを
アメリカ政府に求めるロビー活動が大々的に始まったからだ。
馬暁華(ばぎょうか)著『幻の新秩序とアジア太平洋』(
彩流社)によれば、
アメリカ委員会設立を最初に言い出したのは、ハリー・プライス元燕京大学教授(17)だった。彼は弟フランク・プライス(在中宣教師)(18)と共に、ニューヨーク地域在住の友人たちに呼び掛け、対中軍事援助の実施や対日
経済制裁を求める
ロビー団体の必要性について相談した。さらに6月7日にワシントンDCに赴き、
国務省極東部長ホーンベック(16)と会見したところ、ホーンベック(16)は、
アメリカ社会の
孤立主義の空気を変え、アジア問題への関心を高めるため、「キャンペーン活動を行うべきである」との考えを示し、ハリー・プライス(17)の主張を支持した。
国務省の支持を得たプ
ライス兄弟は、「奇跡の人」で有名な
ヘレン・ケラー女史、元在中国外交官のロジャー・グリーン(IPR理事長で
ロックフェラー財団理事ジェ
ローム・グリーンの弟)、元在中宣教師
マックスウェル・スチュアート(4)、雑誌「アメラジア」編集人
フィリップ・ジャフェ(5)、YMCA中国事務局長ジョージ・フィッチ(15)、女性
平和団体「戦争の原因究明と解決策創出のための全国委員会」代表の
ジョセフィン・シェイン女史などと共に1938年7月、ニューヨークにおいて「
アメリカ委員会」を設立した(正式な設立は1939年1月で、元
国務長官ヘンリー・スティムソン(15)が名誉会長に就任した)。
発起人の内、フランク・プライス(18)は
中国国民党中央宣伝部国際宣伝処の英文
編集委員会主事だった。元在中宣教師
マックスウェル・スチュアート(4)は
アメリカ
共産党の外廓団体「
アメリカ中国人友の会」会長で、
ジャフェ(5)、
ビッソン(13)の2人はヴェノナ文書で
ソ連のスパイと見なされた人物だ。そして「戦争の原因究明と解決策創出のための全国委員会」代表の
ジョセフィン・シェイン女史は、
アメリカ
共産党のシンパだったと言われている。
因みに
シェイン女史率いる「戦争の原因究明と解決策創出のための全国委員会」の構成団体の一つである「全国女性クラブ連合」の幹部の1人がエレノア・
ルーズヴェルト、つまり大統領夫人であった。
このロビー活動を受けて
ルーズヴェルト政権は、中国支援へと舵を切っていく。ホーンベック
国務省極東部長(16)の進言を受けて
ルーズヴェルト大統領は1938年12月、「対日牽制の意をこめて」、
中国国民党政府に2500万ドルの借款供与を決定したのである。
共産党の暗躍を見抜いていた若杉総領事
若杉要ニューヨーク総領事は1938年7月20日、
『当地方ニ於ケル支那側宣伝ニ関スル件』と題する機密報告書を提出し、
アメリカの
反日宣伝の実態について次のように分析している。
一、シナ事変以来、アメリカの新聞社は「日本の侵略からデモクラシーを擁護すべく苦闘している中国」という構図で、中国の被害状況をセンセーショナルに報道している。
二、ルーズヴェルト政権と議会は、世論に極めて敏感なので、このような反日報道に影響を受けた世論によって、どうしても反日的になりがちだ。
三、アメリカで最も受けがいいのは、蒋介石と宋美齢夫人だ。彼らは「デモクラシーとキリスト教の擁護者だ」とアメリカの一般国民から思われているため、その言動は常に注目を集めている。
四、一方、日本は日独防共協定を結んでいるため、ナチスと同様のファシズム独裁国家だと見なされている。
五、このような状況下で中国擁護の宣伝組織は大別して中国政府系とアメリカ共産党系、そして宗教・人道団体系の三種類あるが、共産党系が掲げる「反ファシズム、デモクラシー擁護」が各種団体の指導原理となってしまっている。
六、共産党系は表向き「デモクラシー擁護」を叫んで反ファシズム諸勢力の結集に努めており、その反日工作は侮りがたいほどの成功を収めている。
七、共産党の真の狙いは、デモクラシー擁護などではなく、日米関係を悪化させてシナ事変を長期化させ、結果的に日本がソ連に対して軍事的圧力を加えることができないようにすることだ。
ルーズヴェルト政権はその後、
反日世論の盛り上がりを受けて1939年7月26日、日米通商条約の廃棄を通告。日本はクズ鉄、鋼鉄、石油など重要物資の供給を
アメリカに依存しており、日本経済は致命的な打撃を受ける可能性が生まれてきた。一方、
蒋介石政権に対しては1940年3月、2000万ドルの軍事援助を表明、
反日親中政策を鮮明にしつつあった。
アメリカに対する反発の世論が日本国内に沸き上がりつつある中で、若杉総領事1940年7月25日、3日前の22日に発足したばかりの第二次近衛内閣の松岡外相に対して「米国内ノ
反日援支運動」という報告書を提出し、次のように訴えた。
一、アメリカにおける反日・中国支援運動は、大統領や議会に対して強力なロビー活動を展開し効果を挙げているだけでなく、新聞雑誌やラジオ、そして中国支援集会の開催などによって一般民衆に反日感情を鼓吹している。
二、この反日運動の大部分は、アメリカ共産党、ひいてはコミンテルンが唆(そそのか)したものだ。
三、その目的は、中国救済を名目にしてアメリカ民衆を反日戦線に巻き込み、極東における日本の行動を牽制することによって、スターリンによるアジア共産化の陰謀を助成することだ。
四、中国救済を名目にして各界に入り込もうとする、いわばアメリカ共産党・コミンテルンによる「トロイの木馬」作戦の成功例が「日本の中国侵略に加担しないアメリカ委員会」だ。共産党関係者を表に出さず、ヘレン・ケラーといった社会的信用があるリベラル派有識者を前面に出すことで、政界、宗教界、新聞界を始め一般知識人階級に対してかなり浸透している。
五、共産党のこのような作戦に気づいて苦々しく思っている知識人もいるが、一般民衆の反日感情のため、反日親中運動に対する批判の声を出しにくくなっている。
つまり、
ルーズヴェルト政権の
反日政策に反発して近衛内閣が反米政策をとることは、結果的に
スターリンによるアジア共産化に加担することになるから注意すべきだと若杉総領事は訴えたわけだが、その声に、近衛内閣は耳を傾けなかった。
若杉総領事の報告書が届いた翌日、近衛内閣は、
ゾルゲ・グループの
尾崎秀実ら昭和研究会の影響を受けて、アジアから
英米勢力排除を目指す「大東亜新秩序建設」を国是とする「基本国策要綱」を
閣議決定し、翌1941年4月13日には日ソ中立条約を締結するなど連ソ反米政策を推進していった。
◇第7段階
政権内部のスパイたちが対日圧迫政策を強行
エドワード・ミラー著『日本経済を殲滅せよ』(新潮社)によれば、7月26日、
財務省通貨調査局長の
ハリー・デクスター・ホワイト(20)の提案で在米日本資産は凍結され、日本の金融資産は無価値となり、日本は実質的に「破産」に追い込まれた。それだけではない。
ホワイト(20)は
財務省官僚でありながら11月、日米交渉に際して事実上の対日最後通告となった「
ハル・ノート」原案を作成し、東條内閣を対米戦争へと追い込んだ。
ヴェノナ文書によれば、これら
反日政策を推進した
カリー大統領補佐官(19)も
ホワイト財務省通貨調査局長(20)も、
ソ連のスパイであった。
かくして1941年12月、日米戦争が勃発した。
真珠湾攻撃の翌々日の12月9日、
中国共産党は日米戦争の勃発によって「太平洋
反日統一戦線が完成した」との声明を出している。
アメリカを使って日本を叩き潰すという
ソ連・
コミンテルンの戦略は、21年後に現実のものとなったわけだ。
以上のように、
ヴェノナ文書や
コミンテルン文書、
日本外務省の機密文書
などが公開されるようになって、コミンテルンと中国共産党、そして「ソ連のスパイたち」を重用したルーズヴェルト政権が戦前・戦中、そして戦後、何をしたのかが徐々に明らかになりつつある。
江崎道朗氏 昭和37(1962)年、東京都生まれ。九州大学文学部卒業。月刊誌「祖国と青年」編集長を経て平成9年から日本会議事務総局に勤務、現在政策研究を担当する専任研究員。共著に『日韓共鳴二千年史』『再審「南京大虐殺」』『世界がさばく東京裁判』(いずれも明成社)など。