「儒教に呪われた韓国」

ゆがんだ儒教思想による差別意識が問題だ

礼節の国の正体 ~韓国は、

なぜ謝罪要求を繰り返すのか 

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ケント・ギルバート百田尚樹対談 

儒教呪われた韓国」

 

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 なぜ韓国は、ここまで反日的になるのか。そこには儒教の呪い」があるという。著書儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』が話題のケント・ギルバート氏と作家の百田尚樹氏が、韓国の本質を語り合った。

 * * *
百田:韓国というのは、面倒な国ですね。いつでも日本に攻撃的じゃないと国としてまとまれない。日本人はお人好しだから、韓国で新政権ができたら「とりあえず仲良くせなあかん」という雰囲気になるでしょうけど、不用意に握手しないほうがいいと思います。何をやってくるかわからないと、警戒感を持つべきでしょう。

ケント:そうですね。中国から儒教中華思想を全面的に受け入れた韓国から見れば、日本は朝鮮半島よりも世界の中心である中国から遠い。だから日本は「野蛮な国」で、自分たちより「下」でなければいけない。しかも恨の思想があるから、常に日本を軽蔑していないと気が済まないんです。「日本が韓国より発展しているなんておかしい」「韓国が発展できないのは日本が占領したからだ」という根拠のない嫉妬や恨みはずっと続くのです。

百田:慰安婦問題にしても、日本人は謝れば水に流してくれると思っている人も多いけれど、どんなに謝罪しようが援助しようが、彼らが日本を「許す」ことは永久にありえません。

ケント:儒教では一度謝ったら“罪人”扱いになり、永久に隷属することになる。だから、どんな手段を使ってでも相手に謝らせようとする。それにしても、韓国はよく中国に吸収されませんでしたね。

百田:中国からすれば、支配してもいいことがないから“属国”にしておけばいいということだったのでしょう。かつて韓国では中国の使節が来ると三跪九叩頭の礼で出迎えましたが、その時の捧げ物の中には「女性」がありました。目立った特産品もないので、女性を献上していた。

ケント:韓国は、大国に媚びて生き残る事大主義だから、属国であることに自分でも納得しています。清に従っていて、ロシアが強くなってきてロシアにつこうとしたら、日露戦争で日本が勝ったので日本にすり寄って、戦後はアメリカに従った。最近また中国が強くなってきたから中国に従おうとしたら、アメリカがそれを認めないから、韓国は右往左往している。

百田:奇妙なのは、属国なのにどこかで「自分たちは中国人だ」と思っている節があることです。李朝の特権的な支配階級である両班は漢文、つまり中国の言語を使っていましたが、一般庶民は字が読めない。それで4代国王の世宗が15世紀にハングルを作ろうとしました。すると両班は「中華の土地では方言を文字にしてはいけない」と猛反対した。つまり自分たちは中華の一員と思っているのです。モンゴル、チベット西夏、日本などが独自の文字を持っているのは、野蛮な国で中国語が理解できないからだという理屈でした。

 困った世宗は、ハングルは「訓民正音」、つまり“正しい音”ということで、単なる発音記号であるということで、なんとか認めさせた。それでも一般人に対する教育機関はなかったから、日本が韓国を併合した時は、一般の民衆の識字率はとても低かった。

 

ケント:そう。日本が、韓国でハングルを教育して広めましたからね。日本が併合したことで、識字率は高まり、インフラも整った。併合すべきだったかどうかはわかりませんが、それが日本のやり方で、欧米諸国の植民地政策とは根本的に違います。

百田:併合に関しては、韓国側が望んだものです。国際社会も認めました。

ケント:そうですね。だけど悔しくてその事実は絶対に認めたくないから、「日本に併合されたせいで発展が遅れた」と被害者意識を増大させてしまっている。

 儒教というと、日本人は「仁・義・礼・智・信」という言葉に代表されるように、いいもののように受け取ります。でも中国や韓国では儒教のそうした優れた部分は破壊されてしまった上に、“上下関係をきちんとする”という考え方がねじれて「日本は格下で野蛮」という意識だけが残った。その結果、自己中心的で傲岸不遜嘘をつくのも当たり前で、道徳心も倫理観も失ってしまった。これを僕は「儒教の呪い」と呼んでいます。

ケント・ギルバート/1952年、アイダホ州生まれ。1971年、初来日。カリフォルニア州弁護士。1983年、テレビ番組「世界まるごとHOWマッチ」にレギュラー出演し、人気に。近著に『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』『日本人は「国際感覚」なんてゴミ箱へ捨てろ! 』がある。

●ひゃくた・なおき/1956年、大阪市生まれ。同志社大学中退。放送作家として「探偵!ナイトスクープ」などの番組構成を手がける。2006年、『永遠の0』で作家デビュー。近著に『カエルの楽園』『幻庵』などがある。

※SAPIO2017年6月

なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか

「脱中華」の日本思想史」

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なぜ論語儒教はまったく関係がないのか

石平(せき・へい:評論家)

 

<<評論家の石平(せき・へい)氏は近著『なぜ論語は「善」なのに、

儒教は「悪」なのか』にて、多くの日本人が常識だと考える「論語儒教」に対して、疑問を呈している。

自身が幼少の頃に、祖父の摩訶不思議な「教え」から『論語』に接し、

のちに儒教の持つ残酷な側面を知り、強い葛藤を抱くようになったことで、この結論にたどり着いたのだという。

ここでは石平氏の主張の一端を同書より紹介する。>>

※本稿は石平著『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。
 

孔子儒教の「教祖」ではない!

孔子、人生経験が豊富な常識人ではあるが、いわゆる哲学者でもなければ聖人でもなく、宗教家や「教祖様」のような存在とはなおさら無縁の人間であった

そして論語』という書物は、人生の指南書として大いに読むべきものであっても、

哲学の書であるとは言えないし、いわゆる聖典でもなければ宗教の教典でもなかった。

言ってみれば、孔子という知恵者の長者が、弟子たちに向かって賢明な生き方や学び方や物の見方を諄々と語り教える、それが『論語』という書物のすべてであった。

しかし後世になって成立した儒教において、孔子は「聖人」や「至聖」に持ち上げられ、儒教の「教祖様」のような存在に祭り上げられた。

さらに後世になって成立した儒教教典の「四書五経」では、『論語』も儒教聖典の一つに位置づけられ、科挙試験に必須の教科書となって、読書人であれば誰もが恭しく「拝読」しなければならない一冊となった。

もちろん、後世の儒教において孔子が「聖人」に奉られたことも、『論語』が聖典に持ち上げられたことも、それらは全部、孔子の与(あずか)り知るところではない。孔子にとってそれは甚だ不本意なことであろう。

というのも、後世において誕生し成立した儒教は、孔子を「教祖」と祭り上げながらも、実際には孔子や『論語』とは関係の薄い教学だったからである。

 

時間的にも質的にも完全な隔たりがある

儒教が成立したのはいつなのか。それに関しては諸説あるが、有力な説の一つは「漢代成立説」である。たとえば中国思想史家の東京大学大学院教授・小島毅氏は、「漢代成立説」を主張する一人である。小島氏はその近著『儒教の歴史(宗教の世界史5)』(山川出版社)でこう述べている。

「筆者の学術的認識では、儒教が誕生したのは漢代のことである。その理由は(中略)簡単にいえば、経典の確定とそれをめぐる教学が成立するのが漢代だからである」と。

あるいは『世界大百科事典(第二版)』は「儒教」について、「中国で前漢武帝董仲舒(とうちゅうじょ)の献策で儒家の教説を基礎に正統教学として固定し、以後、清末までの王朝支配の体制教学となった思想」と解説しているが、これも明らかに、儒教の成立を漢代(前漢)とする見方である。

筆者も儒教の成立は前漢時代であると考えているが、その成立時期の点からしても、儒教は、孔子や『論語』とはほとんど関係がないのではないかと思われる。前漢時代というのは、孔子および『論語』の時代とはあまりにも時間的な隔たりがあり、質的にもまったく違った時代だからである。

孔子が没したのは紀元前四七九年であるが、前漢王朝が成立したのは紀元前206年、孔子が死去してから273年も経ってからのことである。

しかも、前漢王朝成立後に儒教が直ちに誕生したわけでもない。儒教が教学としてきちんと成立したのは紀元前141年に漢の武帝が即位した後のこと、孔子の死去から数えると三百数十年後のことである。

儒教は厳密に言えば宗教ではないので、安易に比較することはできないかもしれないが、世界三大宗教であるイスラム教・仏教・キリスト教の場合を見てみよう。

イスラム教と仏教は、それぞれの創始者であるムハンマドや釈迦の生前においてすでに宗教としての形を整えて大きな教団を作り上げている。キリスト教の場合、イエス・キリストが十字架の死から復活したその直後から、教団としての布教活動は始まった

それらに比べて儒教の場合、「教祖」あるいは「始祖」とされる孔子が没して三百年も経ってから教学として成立したというのはいかにも異様だ。孔子や『論語』と後世の儒教との関係の薄さは、それによっても示されているのである。

孔子や『論語』と儒教の隔たりは、時間的間隔だけではない。実は孔子の生きた中国史上の春秋時代と、儒教が成立した前漢時代とはまったく異質の時代であって、政治体制も社会の仕組みも完全に違っているのである。
孔子が生きていた春秋時代は、中国史上の封建制時代である。

当時、中国大陸には周王朝の王室を頂点とした封建制の政治システムが成立しており、周王朝宗主国と認める各諸侯が天下を分割統治していた。そして孔子の死後に始まった戦国時代に各諸侯国が戦いと併合を繰り返した結果、紀元前221年に七つの大国(戦国七雄)の一つである秦国が他の列強を滅ぼして天下を統一し、中国史上初めての統一帝国である秦王朝を樹立した。

秦王朝は周代以来の封建制を廃止して、中央集権制の政治システムを作り上げ、皇帝一人が官僚を手足のように使って全国の土地と人民を直接支配するようになった。

それ以来、統一帝国と中央集権制は中国の政治的伝統として受け継がれ、現在に至っても健在であるが、秦王朝の後を継いだ前漢の時代、特に儒教が成立した前漢第七代皇帝の武帝の時代は、まさに統一帝国と中央集権制がきちんと整備され定着した時代である。

 

もし孔子が甦って中国の皇帝独裁を目にしたら

こうして見ると、孔子の生きた時代と儒教の成立した時代は、中国史上のまったく違った時代であることがよくわかる。前漢の時代に成立した儒教が、政治システムも社会の仕組みも完全に異なる三百年前の春秋時代に生きた孔子を「教祖」に奉ったのは、何かの間違いとしか思えない。

実際、孔子が『論語』の中で何度も述べているように、彼自身が政治制度としてもっとも推奨しているのは周王朝のそれであり、要するに前漢時代とはまったく異なった封建制なのである。

もし孔子前漢の時代に蘇って皇帝独裁の中央集権制の政治を目にしたら、もう一度憤死するに違いない。この孔子を、前漢時代を代表するイデオロギーである儒教の「始祖」にするとは悪い冗談というしかない。

結局のところ、漢代に成立した儒教は、「孔子と『論語』の思想を継承した」云々というよりも、むしろ孔子の名声を悪用して、孔子・『論語』とはほとんど関係のないところで自分たちの教学を作り上げただけのことである。孔子儒教、そして『論語』と儒教とは、最初から別々のものなのである。