宮中で行われる一年最初の儀式 『四方拝』

森羅万象の神さま との 取次役

天皇陛下 四方拝

 

日本神道の慈悲深さ

悟りへの導きを促す

『我が身を通して悟りへ至らしめん』ということ

 

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その呪文の部分

賊冦之中過度我身

(賊冦の中、我が身を過し度せよ)
ぞくこうしちゅうかどがしん

毒魔之中過度我身

(毒魔の中、我が身を過し度せよ)
どくましちゅうかどがしん

毒氣之中過度我身

(毒氣の中、我が身を過し度せよ)
どくけしちゅうかどがしん

毀厄之中過度我身

(毀厄の中、我が身を過し度せよ)
きやくしちゅうかどがしん

五急六害之中過度我身

(五急六害の中、我が身を過し度せよ)
ごきゅうろくがいしちゅうかどがしん

五兵六舌之中過度我身

(五兵六舌の中、我が身を過し度せよ)
ごへいろくぜつしちゅうかどがしん

厭魅之中過度我身

(厭魅の中、我が身を過し度せよ)
えんみしちゅうかどがしん

萬病除癒、所欲随心、急急如律令
まんびょうじょゆ しょよくずいしん 

きゅうきゅうにょりつりょう


「過」とは
・すぎる、わたる、よぎる、あまねく

「度」には
・ここでは、悟らせる、という意味です。

つまり、罪障(ざいしょう 悟りをひらいたり極楽往生したりする上で、妨げとなる罪)は我が身を通して悟りへ至らしめん

ということです。つまり単純に「罪障から私を守ってください」ということではないのです

むしろ、罪障を呼び寄せ

悟りへの導きを促す意味が「過度」という呪文には含まれれているということです。

「魔性をはじかない」むしろ

「魔性」ですら

憐憫(れんびん ふびんに思うこと。あわれみの気持)の情を注ぎ、

道筋を立ててあげる


魔除けではないむしろ「魔寄せ」だということです。

だからこそ、代理では出来ない。




四方拝」はこういう崇高な神事



四方拝(しほうはい)とは

宮中で行われる一年最初の儀式で、

元旦に、天皇が天地四方と山稜を拝する儀式。

「しほうばい」とも言う。

天皇が伊勢の皇太神宮・豊受大神に向かって行われる皇室祭祀(さいし)。

天皇が清涼殿の東庭に出て、属星(ぞくしょう)・天地四方・山陵を拝し、五穀豊穣・天下太平を祈る。

明治以降は神嘉殿で、皇大神宮豊受大神宮・四方の神々を拝することに改められた。

現在は神嘉殿の南座で伊勢皇大神宮・天地四方に拝礼する。

具体的には、大晦日の夜、天皇は体を清め、元日の寅の刻(午前4時ごろ)より準備にはいる。

黄櫨染御袍と呼ばれる天皇のみが着ることが出来る特別な装束を着て、

皇居の宮中三殿の西側にある神嘉殿の南側の庭に設けられた建物の中に入り、

午前五時三十分に開始。伊勢の神宮皇大神宮豊受大神宮の両宮に向かって拝礼した後、続いて四方の諸神を拝する。

この時に天皇が拝される神々・天皇陵は伊勢神宮天神地祇神武天皇陵・

先帝三代(明治天皇伏見桃山陵大正天皇多摩陵昭和天皇武蔵野陵)の各山陵、

武蔵国一宮(氷川神社)・山城国一宮(賀茂別雷神社賀茂御祖神社)・石清水八幡宮熱田神宮鹿島神宮香取神宮です。



●(黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)とは、

天皇が重要な儀式の際に着用する束帯装束の袍のことで。

この名前は染めてある色名からであり、

「黄櫨染」とは黄色の中に赤を混ぜた色で今の黄土色に近い色のことで。

820年(弘仁11年)に嵯峨天皇の詔により制定。

中国の赭黄袍(しゃこうほう)を起源としている
(それ以前の天皇の袍は白色であったと推定されている)。

なお中国では隋代以降戎服(唐の常服。

日本の朝服に相当するもの。束帯はこれが和様化したもの)に黄色を尊び、

唐にいたって赭黄袍を皇帝専用にした。

黄櫨染は、天皇以外決して使用することができない色で「絶対禁色」と呼ばれた。

真昼の太陽の色を象徴したものでもある。

この黄櫨染の袍には「桐」「竹」鳳凰」「麒麟」の4種類の文様が記されていて、

長方形の筥形文となっている。

現代では、この四方拝即位の礼の中での最重要の儀式「正殿の儀」で着用されてい る。

日の光があたると太陽のように輝きを増すといわれる。)

※ 江戸時代以降の黄櫨染色 (RGB16進 #d99502)(黄櫨染の事例、ココ(風俗博物館)
      なお、江戸時代以降の黄櫨染と平安時代の黄櫨染の色は異なる

(その歴史)

平安時代初期、宮中を始源とし、これに倣って貴族や庶民の間でも行われ、

四方を拝して一年間の豊作と無病息災を祈っていたが、時代を経るごとに宮中行事として残るのみとなった。

平安時代初期の嵯峨天皇の御代に始まったとされているが、

儀式として定着したのは宇多天皇の時代とされ、

宇多天皇御記』の寛平2年旧暦元旦が四方拝が行われた最古の記録である。

その後、応仁の乱で一時中断されたが、

後土御門天皇の文明7年(1475年)に再興されて以後は孝明天皇に至るまで、京都御所の清涼殿の前庭で行われた。

東庭には3つの座が設けられ、北側には燈台と机が置かれ、机にはお香と花が供えられており、

それらを取り囲むように屏風が張り巡らされた。

最初の座で拝むのは干支を北斗七星の7つの星に割り振った「属星」で、天皇は北に向かい新年の属星を7回唱える。

そして、深く拝動作を2回繰り返す「再拝」に続けて呪文が唱えられる。

国家国民の安泰を祈る厄払いの呪文である。

続いて天皇は北に向かって天を再拝、次に北西に向かって地を再拝、

その後、東・南・西・北の順にそれぞれの方角を再拝

最後に歴代天皇が葬られている天皇陵に再拝を2回重ねる「両断再拝」をして終了する。

四方拝は明治時代には呪文を唱えなくなったり、拝する神社が追加されるなど、

その形を少しづつ変えながらも現在まで脈々と続けられている。

天皇の属星(ぞくしょう:誕生年によって定まるという人間の運命を司る北斗七星のなかの星)、

天地四方の神霊や父母の天皇陵などの方向を拝し、

その年の国家・国民の安康、豊作などを祈った