朝鮮出兵計画は早くから明に漏れていた。

朝鮮出兵計画は早くから明に漏れていた。

そもそも、秀吉は幾度となく軍事的侵攻を仄めかす恫喝文書を東アジア諸国に送っていたこともあって、

いつ攻めてきてもおかしくないという危機感が諸国にはあったが、

それが朝鮮・明国への大規模侵攻という具体的情報として明にもたらされたのは1591年のことだ。




1590年、秀吉は琉球王尚寧に対し明征服計画を伝え、琉球も従軍するよう命じる。

元々琉球は明を宗主国と仰ぐ冊封国であって、

豊臣政権の軍事力を前にした恫喝外交によって外交上従属的な立場を余儀なくされているにすぎないから、


侵略戦争に巻き込まれてはたまらない。

1591年三月、琉球重臣鄭?の意を受けた使者が朝貢船に同乗し、明政府に侵攻計画を報告する。




上里隆史P129-130から要点だけまとめて箇条書きすると

1) 秀吉軍は軍船二万、兵力二百万と号している。
2) 北京への侵攻は朝鮮に先導させるほか、江南からも日本在住華人二千人に先導させる
3) 開戦時期は1591年八、九月ごろ
4) すでに朝鮮が秀吉に屈して援軍に回るといわれている




実際朝鮮政府は秀吉の強硬な要求を撥ねつけていたのだが、

朝鮮の裏切りとの情報に明政府は動揺し、事実調査に乗り出している。


続く1591年九月、倭寇に拉致された漁民からも同様の情報がもたらされ、

続く1592年一月、今度は島津義久の外交ブレーンであった華人医師の許儀後と郭国安から情報を託された

商人によって、秀吉の征明計画や日本国内の実情、さらには国内に蔓延する厭戦気分など

までより詳細な情報がもたらされた。許儀後は日本軍の侵攻前に明軍によって朝鮮を占領し、

侵攻してきた日本軍を殲滅する計画も提案しているという。

許儀後はのちに明国への情報漏洩が露見し、秀吉に処刑されそうになるが、

徳川家康のとりなしで助けられている。





島津義久の側近という信頼度の高い情報ソースだけに、

明政府は朝鮮の裏切りに高い信憑性を覚えてしまい、これが明軍の初動を遅らせる結果となった。



開戦後の1593年四月、明政府は密かにスパイを日本に送っている。

指揮使(五千の兵を統率する将)の史世用という人物が商船に潜り込んで大隅に入ると、



その後名護屋にあった島津義久・許儀後と接触

同行していた海商の張一学はそのまま京都へと向かって動静を探ったとされる。

史世用はその後島津家家老の伊集院忠棟とも会談し、

明の軍人であることを見抜いた伊集院忠棟は彼に甲冑を贈ったという。



また、史は何人か薩摩の武将とも接触を図っている。

彼らは帰路、一時琉球沖で遭難するが、1594年十二月に帰国、詳細な報告書を提出した。


彼らの報告書は『秀吉の生い立ち(「サル」のあだ名の情報も)と天下をにぎるまでの経緯、

後継者鶴松の死や甥の秀次、秀吉の側近情報、朝鮮出兵に関連して大友義統の改易や

被虜朝鮮人、在日明人の状況、長崎・薩摩の情報まで多岐にわたる』(上里P155)が、

特筆されているのは、秀吉に反感を持っている諸大名の存在だ。




特に島津義久は『心中では一日たりとも秀吉への恨みを忘れていない』(上里P155)と報告されているという。



この報告書を元に、明政府では密かに島津氏懐柔(上手に話をもちかけて、

自分の思う通りに従わせること)工作が実行に移されている。

1595年と98年にそれぞれ使者が島津義久の下を訪れて豊臣政権からの離脱を促した。


文禄・慶長の役で悪名・勇名を轟かす島津軍だが、島津家中は秀吉に対する不満が爆発寸前だった。

当初の動員計画では島津軍一万が予定されていたが家臣の反豊臣感情が根強く、

動員数をその半分の五千に削減してもらってなお、文禄三年までに三千七百人しか集まらなかった。

中野等「文禄・慶長の役 (戦争の日本史16)」P124の文禄二年五月二十日付布陣計画では島津義弘軍2128人、豊久軍476人とある。



このような島津家中の不満は実力行使としても現れている。

天正二十年六月、朝鮮出兵計画に不満を持つ島津氏の武将梅北国兼が出奔して住民を動員し

出陣中の加藤清正肥後国佐敷城を占拠、さらに八代の麦島城を攻撃するという事件「梅北一揆がおきた。

ほどなくして鎮圧されるが、梅北の監督責任を問われて島津義久・義弘の弟歳久が自害に追い込まれた

梅北一揆については謎も多く、おそらく梅北個人の主導ではなく島津家による組織的な反乱計画であった可能性が大きい。


また、石田三成主導で島津領の検地が行われ、大規模な領地替えが行われている。

義久が鹿児島から大隅の富隈に移動させられ、義弘は大隅の帖佐、忠恒が新たに鹿児島に移った

ほか、豊臣政権に協力的な武将が厚遇された反面、

多くが長年の領地から引き離され、不満が増大することとなった。

また、この富隈派、帖佐(加治木)派、鹿児島派の三勢力の分裂と対立関係が後々の琉球侵攻まで尾を引くことにもなる。


史世用を派遣した福建巡撫の許孚遠は1594年に軍船二千、兵二十万での日本侵攻計画を上奏

1598年に島津氏に派遣された使者は明軍が朝鮮奪還後に琉球、シャム、ベトナムポルトガル連合軍約一万隻で

薩摩から日本に侵攻、島津氏はその先陣を務めて豊臣秀吉を討つという計画を打診している。




また許儀後は福建の明軍が二万で薩摩から上陸して島津軍四万と共同で秀吉を討つという計画を明側に提案したという。

また、明の兵部尚書石星もシャムが援軍を申し出たことをうけてシャム軍を対日戦に投入する計画を検討しており、

かなり大規模な対日反攻計画案が東アジア海域を巻き込んで飛び交っていた。



この間、琉球も日本の動静を偵察して、文禄の役停戦後、

日本の再侵攻計画をあらためて1598年四月に明に報告している。



結局島津氏が裏切らなかったので対日本侵攻計画は全て実現しなかったが

薩摩経由での侵攻計画は流石に、もし島津の離反があったとしても実現の可能性は低かっただろう


明に朝鮮方面と別に二正面作戦を展開するだけの余力があったとは思えないし、

同様に兵の大半を朝鮮出兵に割かれていた島津氏にも蜂起するだけの動員力があったとは思えない。

また、江南から薩摩への大規模な兵の輸送は、博多から朝鮮半島への輸送とは比較になら

ないほど困難であるから、兵の移動や兵站の維持などの面でも現実的ではないだろう

侵攻後に現地徴収しようにも、日本全国の兵糧のほとんどが朝鮮に送られており、


しかも慢性的な兵糧不足で戦地では餓死者が続出していた。

おそらく当時も、それら現実性も考慮して、計画止まりに終わったということだったのだろう。




このように、少し視点をずらすと

文禄・慶長の役を巡って東アジア海域諸国を巻き込んでの非常にダイナミックな

情報戦が繰り広げられていたことがわかる。