20世紀前半の日本の歴史に
保守言論界に広まっている。
それによれば、
弱体化を図るとともに
「北進」を妨げてソ連 を防衛し 、
国民党に追い詰められていた
中国共産党 を助けるために始められた。あるいは、何の益もないのに停戦せずに戦いが続いた。
さらに、日本が「南進」から
アメリ カとの戦争に至ったのも、
日本 を対米戦に仕向けて敗北させ 、
その混乱に乗じて
共産主義 革命を起こすという
「敗戦革命」謀略 だった──。
一方で、そんな議論は妄想にまみれた「
コミンテルン 」
陰謀史観 である、と切って捨てるのが日本の歴史研究者の「王道」のようである。
米露の著名な
ソ連 研究者アーチ・ゲッティとオレグ・ナウーモフが指摘しているように、
スターリン 以下
共産党 幹部は、
十月革命 (1917年)とその後の権力掌握という成功体験から、自らが
歴史の産婆役 であることを確信し、
共産主義 の理想と、その実現に自分たちが不可欠であることを本当に信じていた。
自分たちの政策が誤っていると想像することなど心底不可能だったのである。もし思わしくない事態が生じたら。それは彼らの無私の努力を妨害する陰謀に満ちた「邪悪な力」(conspiratorial“dark forces” )が働いているに違いないのだ(『大粛清への道』川上洸・萩原直訳)。
しかも、全世界共産化という自らの理想は絶対に正しい のだから、謀略や陰謀はもちろん、破壊工作、テロ、さらには虚偽宣伝までどのような手段も許される 。
謀略工作 あるいは
陰謀を主要な手段の一つ としていたことは否定できない事実である。近年世界各国で進められている、
ソ連 崩壊後の資料公開に基づく研究がそのことを明らかにした。検討すべき問題は、もはやその存在の有無ではなく、
実際にどれだけ有効に機能したか否かであろう。
ここでは、
1939年9月の第二次大戦勃発(欧州戦線)までの
対日を中心とするソ連 外交と世界史の流れ を、
レーニン 及び
スターリン 自身の発言に沿いながら見て行きたい。
この時代の
共産主義者 による数々の謀略工作あるいは陰謀については、すでに日本でも多くの文献がある。しかし、これまでの議論ではその細部にこだわる余り、
レーニン 及び
スターリン という謀略工作の
最高責任者の言動の検証が疎かになっていた からである。
モスクワ組織の活動分子の会合での演説」で、
全世界で共産主義 が最終的に勝利する までの基本準則(правило основное)というものが存在すると主張した。
二つの帝国主義 のあいだの、二つの資本主義的国家群のあいだの対立と矛盾を利用 し、
彼らをたがいにけしかけるべきだということである。
われわれが全世界を勝ちとらないうちは、われわれが経済的および軍事的な見地からみて、依然として残りの資本主義世界よりも弱いうちは 、
右の準則をまもらなければならない。すなわち、帝国主義 のあいだの矛盾と対立を利用する ことができなければならない。
レーニン が資本主義社会において
共産主義者 が
「利用すべき根本的対立 」 として挙げた以下の内容は日本国内ではあまり知られていない。
第一の、われわれにもっとも近い対立──
それは、日本とアメリ カの関係 である。両者の間には戦争が準備されている。両者は、その海岸が三〇〇〇ヴェルスタ[ほぼキロメートルと同じ]もへだたっているとはいえ、太平洋の両岸で平和的に共存することができない 。…
地球は分割ずみである。日本は、膨大な面積の植民地を奪取した。
日本は五〇〇〇万人の人口を擁し、しかも経済的には比較的弱い 。
アメリ カは一億一〇〇〇万人の人口を擁し、日本より何倍も富んでいながら、植民地を一つももっていない。
日本は、四億の人口と世界でもっとも豊富な石炭の埋蔵量とをもつ中国を略奪した 。
こういう獲物をどうして保持していくか?
強大な資本主義が、弱い資本主義が奪いあつめたものをすべてその手から奪取しないであろうと考えるのは、こっけいである。…
このような情勢のもとで、われわれは平気でいられるだろうか、そして共産主義者 として、「われわれはこれらの国の内部で共産主義 を宣伝するであろう」と言うだけですまされるであろうか。これは正しいことではあるが、これがすべてではない。共産主義 政策の実践的課題は 、この敵意を利用して、彼らをたがいにいがみ合わせる ことである。
そこに新しい情勢が生まれる。
二つの帝国主義 国、日本とアメリ カをとってみるなら──両者はたたかおうとのぞんでおり、世界制覇をめざして、略奪する権利をめざして、たたかうであろう。…われわれ共産主義者 は、他方の国に対抗して一方の国を利用 しなければならない。…
もう一つの矛盾 は、アメリ カと、残りの資本主義世界全体との矛盾である。…アメリ カはすべての国を略奪し、しかも非常に独創的な仕方で略奪 している。アメリ カは植民地をもっていない。…イギリスは、強奪した植民地の一つにたいする委任統治 …をアメリ カに提供したが、アメリ カはそれを受けとらなかった。…しかし、この植民地を他の国々が利用する のを彼らが容認しないことは、明らかである。…
第三の不和 は、協商国 とドイツ とのあいだにある。
ドイツは敗戦し、ヴェルサイユ条約 でおさえつけられているが、しかし巨大な経済的可能性 をもっている。…このような国にたいして、同国が生存していけないようなヴェルサイユ条約 がおしつけられている のである。ドイツはもっとも強大で、先進的な資本主義国の一つであって、ヴェルサイユ条約 を耐えることはできない。だから、ドイツは、それ自身帝国主義 国でありながら、圧迫されている国として、世界帝国主義 に対抗して同盟者を探しもとめなければならない。
歴史は第二次大戦まで、ほぼこの
レーニン の基本準則に従って推移した。
「自然」とそうなった、あるいは
レーニン の「
科学的社会主義 」に基づく「歴史の発展」予測が正しかったのではない。次節以下で示すように、
レーニン の「遺言」を継いだ
スターリン が自覚的にそのように仕向けたのである。
1923年のドイツでの
武装 蜂起失敗が象徴するように、
ソ連 は内向きになったかのように見えた。いわゆる一国
社会主義 路線である。しかし、それは来るべき「資本主義国」すなわち
ソ連 以外の国々との
対決に備えた臥薪嘗胆 の時期であった。
【がしんしょうたん】敵を討とうとして苦労し、努力すること。
ソ連 の第一次及び
第二次五カ年計画 では、軍備増強がすべてに優先した
(デーヴィッド・ストーン『ハンマーとライフル』、未邦訳)。
もちろん、臥薪嘗胆とはいえ、
共産主義者 を使った
破壊工作は継続していた 。
コミンテルン は1928年に、そのものずばり
『武装 蜂起』(Der bewaffnete Aufstand) と題する各国
共産主義者 に向けた
「実用的」な教科書を編集 、(偽名で)発行している。
執筆者はホー・チー・ミンや後に粛清される
赤軍 の「ナポレオン」ミハイル・トゥハチェフスキーをはじめ
錚々たる 顔ぶれであり、失敗に終わった
中国共産党 の広東蜂起(1927年)や
上海自治政府 樹立 (同)の事例が詳細に分析されている。
を見ればわかる。いずれ必ず来る戦争を前に
共産主義者 はどう行動すべきか。
そのような情勢にたちいたったさい、われわれがぜひともだれかにたいして積極的な行動をおこさなければならないということを意味しない。…われわれの旗は、依然としてこれまでのように平和の旗 である。
しかし戦争がはじまれば、手をこまねいているわけにはいかないであろう、─われわれは、のり出さなければならないであろう、もっとも、いちばんあとでのり出すのであるが、われわれは秤皿に決定的なおもりを、相手かたを圧倒しうるようなおもりを、なげいれるためにのり出すであろう。
資本主義国が
内ゲバ で弱ったところに、最後の一撃を加えて
世界革命を完遂する という大原則に、最初から
スターリン ほど忠実な革命家はいなかったのだ。そして
スターリン が仕掛けたのは「最後の一撃」だけではなく、
資本主義列強を弱らせる「内ゲバ 」 だったのである。
満州 問題たけなわの1932年6月12日(より以前)、
スターリン は側近の政治局員ラーザリ・カガノヴィッチに、日本に対して
英米 とは異なり、必ずしも滿洲国承認の可能性を否定せず、あいまいな態度を取るとともに、
アメリ カへの接近を指示する(1933年に国交樹立)。
日米対立の利用 である。
政治局は国際関係において最近生じた大きな変化を考慮に入れていないようだ。そのなかで最も重要な変化は、中国では日本にとって有利に 、欧州では(とくにフォン・パーペン[独首相]への権力移行後)フランスにとって有利に 、アメリカ合衆国 の影響力が低下しはじめたことである。これはきわめて重要な情勢だ。これに応じて、アメリカ合衆国 はソ連 との連携を模索するだろう。そして、すでにそれを求めている。その一つの証拠がアメリ カで最も有力な銀行 の一つ[ニューヨーク・ナショナル・シティー 銀行 ]の代表ランカスターの訪ソだ。この新しい情勢を考慮に入れよ。
そのすぐ後の1932年6月20日には、カガノヴィッチと首相
ヴャチェスラフ・モロトフ に今度は日中対立を利用して、日ソ不可侵条約締結を目指すよう指示する。
もし日本が実際に条約に動きだすとしたら、おそらくそうすることで、どうやら日本が真剣に信じていると思われる我々の対中条約交渉を頓挫させることを望んでいるからだ。だから、我々は中国との交渉を打ち切るべきではないし、逆に、我々の対中接近という見通しで日本を脅かして、それによってソ連 との条約調印に日本を急き立てるために、対中交渉を継続して長引かせる必要がある。
この時は見送られたものの、日本は独ソ開戦の直前、1941年4月に日ソ中立条約を締結する。
バルト三国 、
フィンランド 後述する
ポーランド など、不可侵条約を結んでおいて、侵略(
スターリン から見れば解放)するのが
ソ連 の常套手段であり、もちろん、日本も例外ではなかった。
満州国 との領事交換に同意するなど、
アメリ カとは異なり、表向きは対日宥和のポーズをとりつつ、1933年10月21日、
スターリン は
反日 キャンペーン強化を指示する。
私が見るところ、日本に関し、また総じて日本の軍国主義 者に敵対する、ソ連 及びその他全ての国々の世論の、広範で理にかなった(声高ではない!)準備と説得を始める時がきた。…日本における習慣、生活、環境の単に否定的なだけではなく、肯定的側面も広く知らしめるべきである。もちろん、否定的、帝国主義 的、侵略的、軍国主義 的側面をはっきり示す必要がある 。
「肯定的側面も」というところが、さすがにプロの謀略家 である。
それにしても、具体的にパンフレットの名前(『日本における軍国
ファシスト 運動』)まであげるなど、その指示の細かさには驚かされる。
日本の「アジア侵略の青写真」として喧伝された偽造文書「
田中上奏文 」が世界中で急速に浸透した背景に、こうした
日本重視のブラック・プロパガンダ 戦略 があったことは間違いないだろう。
朝鮮人 を使った滿洲での対日テロ活動が露呈したのである。
スターリン は1932年7月2日(より以前)、カガノヴィッチに当事者の厳罰を命じる。
さる朝鮮人 爆破工作員 たちの逮捕とこの事案への我が組織の関与は、
日本との紛争を誘発する新たな危険を作り出す(あるいはしかねない)。ソビエト 政権の敵以外、いったい誰がこんなことを必要とするのか。
必ず極東指導部に問い合わせて、事態を解明し、ソ連 の利益を害した者をきちんと処罰せよ。このような醜態はもう許さない。…この紳士たちが我々の内部にいる敵のエージェントである可能性は高い。
ここにも、
スターリン の「反共資本主義
陰謀論 」が表れている。自国
諜報機関 が工作に失敗すると、それは内部に侵入した敵の仕業と考えるのである。
ところで、日本では
ソ連 スパイというと
リヒャルト・ゾルゲ を過大視する傾向があるけれども、実際、
ゾル ゲは数あるスパイの一人に過ぎない。諜報活動にも詳しい
ソ連 研究者、黒宮広昭
インディアナ 大教授も指摘しているように、
支那 事変が勃発した1937年夏の時点で、日本と滿洲国には2千人の明らかなスパイと5万人のエージェント(本人に自覚がない場合も含む)がいると日本政府は見ていた。ヴェノナ文書が明らかにした
アメリ カでの
ソ連 スパイ活動の規模から考えて、この数字は日本の治安当局の誇大妄想とはいえない。
支那 事変に至るまでの
共産主義者 の策動については多くの文献があるので、ここでは繰り返さない。
支那 事変以降の
スターリン の対日政策については、黒宮教授の表現を借りれば、以下のようにまとめられる。「
スターリン の目的は、日本を可能なかぎり弱体にし、
ソ連 から遠ざけておくことにあった。これは要するに、日本を中国に釘付けにし、その侵略を米英に向けさせるということである。結局、日本はその後数年まさにその通りに行動することとなった」
スターリン に翻弄される日本とは対照的に、我が国の対ソ政策は
ソ連 側に筒抜けであった。ロシア人と結婚してスパイとなった外交官泉顕蔵を通じ、
ソ連 は外交暗号解読書(code book)を入手していたのである。
盧溝橋事件発生翌月の1937年8月、
ソ連 は中国(国民政府)と日本を念頭に置いた不可侵条約を結び、日本軍が中国で泥沼に陥ることで、
ソ連 に目が向かないよう、大規模な軍事支援を行う。11月18日に
スターリン は、楊杰上将(のちに駐ソ大使)が率いる中国代表団に、
ソ連 だけでなく、
アメリ カやドイツからの武器調達の必要性を説き、さらには「信用ならない」イギリスとの連携にも努めるよう促した後、次のような踏み込んだ発言を行っている。
ソ連 は現時点では日本との戦争を始めることはできない。中国が日本の猛攻を首尾よく撃退すれば、ソ連 は開戦しないだろう。日本が中国を打ち負かしそうになったら、その時ソ連 は戦争に突入する。
ソ連 参戦が
蒋介石 政権を助けるためではなく、
日中が疲弊し切ったところで 、両者に最後の一撃を加えるためであることはいうまでもない。
今まで二年続いた中国との勝てない戦争の結果、
日本はバランスを失い、神経が錯乱し、調子が狂って、イギリスを攻撃し、ソ連 を攻撃し、モンゴル人民共和国 を攻撃している。この挙動に理由などない。これは日本の弱さを暴露している 。こうした行動は他の全ての国を一致して日本に敵対させる。
まさに、
スターリン の高笑いが聞こえてくるかのようである。日本が対米英中のみならず、
ソ連 に対しても侵略を着々と準備したうえで戦争を始めたという
東京裁判 史観は、とりわけ
スターリン にとって片腹痛い、戦前日本の「過大」評価である。
1938年2月7日、日本について
立法院 長孫科に
スターリン が語った次の言葉の方が真実に近いであろう。
歴史というのは 冗談好きで、時にその進行を追い立てる鞭として、
間抜け(дурак)を選ぶ 。
極東及び欧州で風雲急を告げるなか、
1938年10月1日、
スターリン は大演説を行う。以下はその一部である。
kotobank.jp
戦争の問題に関するボルシェビキ の目的 、全く微妙なところ、ニュアンスを説明する必要がある。それは、ボルシェビキ は単に平和に恋焦がれ 、攻撃されたときだけ武器を取る平和主義者ではないことだ 。それは全く正しくない。ボルシェビキ 自らが先に攻撃する場合がある。
戦争が正義であり 、
状況が適切であり、
条件が好都合であれば 、
自ら攻撃を開始するのだ 。ボルシェビキ (多数派)は攻撃に反対しているわけでは全然ない し、全ての戦争に反対してもいない 。今日、我々が防御を盛んに言い立てるのは、それはベールだよベール。全ての国家が仮面をかぶっている。「狼の間で生きるときは狼のように吠えねばならぬ」(笑)。我々の本心を全て洗いざらい打ち明けて 、手の内を明かすとしたら、それは愚かなことだ。そんなことをすれば間抜けだといわれる 。…
実は、レーニン は資本主義の跛行 的発展状況の下、個々の国での社会主義 の勝利が可能である、なぜなら跛行 的発展 つまり遅れる国がある一方、先に進む国があるのだから、と教えてくれただけではなく、レーニン はまた、ある国は遅れる一方、別の国は先に進み、ある国は努力する一方、別の国はもたもたするので、同時の一撃は不可能だという結論にも達していたのだ。…
異なった国の間で社会主義 への成熟度合いが異なっており、この事態に直面して、全ての国で同時に社会主義 が勝利する可能性があるなどとどうして語りうるのか。全くばかげている。そんなことはかつても不可能であったし、今日においてもあり得ない。どういうわけか、この観点を隠して、個々の国で社会主義 の勝利が可能であることだけに言及することは、レーニン の立場を完全に伝えていない。
革命家
スターリン の面目躍如たる発言である。
レオン・トロツキー のような世界同時革命 論 ではなく、
機が熟した(熟すよう仕向けた)国から徐々に武力で共産化していく という自らの方針こそ、
レーニン に忠実な
真の世界革命への道 であるという強い自負が示されている。
さらに
スターリン は、1939年3月10日の第18回
共産党 大会における報告でも、
社会主義 すなわち
ソ連 と資本主義の対立という構図を前面に出し、英仏を念頭に自らの立場を明確にした。
慎重を旨とせよ、そして、他人に火中の栗を拾わせる(загребать жар чужими руками)ことを常とする戦争挑発者が我が国を紛争に引っ張り込むことを許してはならない。
五か年計画による
軍備増強で世界最大の軍事強国となり 、
大粛清で独裁体制を完全なものにしたスターリン は 、この頃から資本主義国間の対立をさらに激化させ、戦争を煽るるべく行動を開始する。
共産党 大会直後に起こった
ドイツのチェコ 併合にも 、
ソ連 は形式的抗議を行っただけで、
英仏 の宥和政策から強硬姿勢への転換とは好対照であった。英独対立が深刻化するなか、1939年5月には、イギリス人を妻とし
英米 仏で受けがよかった
ユダヤ 人マクシム・リトヴィノフ外相が解任され、首相の
モロトフ が外相兼務となり、
独ソ連 携 の動きは加速する。
上述の黒宮教授は綿密な資料調査に基づき、従来の議論とは根本的に異なるこの事件の背景を、2011年にスラブ圏軍事研究に関する学術誌(Journal of Slavic Military Studies、24巻4号)に掲載された論文
「一九三九年ノモンハン の謎」 で明示した。
関東軍 の第二十三師団長
小松原道太郎中将がソ連 のエージェント だったというのである。
黒宮教授は次のような
スターリン の演説(1937年3月3日)からの引用で始める。
戦争時に戦闘で勝利するには何軍団もの赤軍 兵士が必要であろう。しかし、前線でのこの勝利を台無しにするには、どこか軍司令部あるいは師団司令部でもいい、作戦計画を盗んで敵に手渡す数名のスパイがいれば十分 だ。
(黒宮教授が米誌「スラブ軍事研究」 12月号に発表した論文によると、
小松原師団長は在モスクワ日本大使館 付武官 だった27年、
ソ連 情報機関による「ハニート ラップ」 (女性を使って弱みを握る工作活動)に引っ掛かり、ソ連 の対日情報工作に協力するようになったとみられるという)
したがって、「
ハイラル に小松原がいることは、
日本の行動を挑発し 、厳しい軍事的教訓を与えるのに絶好の機会であった。これこそ
スターリン が考えていたことだったように思える。」。
スターリン の狙いはずばり当たった。「
ノモンハン は、
ソ連 に敵対する北方ではなく、
米英蘭の権益に敵対する南方に向かう というその後の
決断に決定的影響 を与えた。
ノモンハン は日本の対ソ野望に対する
スターリン のとどめの一撃(coup de grace)となったわけである。モスクワが
ノモンハン で攻撃を挑発したのだとしても、それに応じたのは
日本の致命的誤り であった。」
最後に黒宮教授はこの論文をこう締めくくる。「
ノモンハン は
スパイの重要性 に関する
スターリン の発言が正しいことを示した。
小松原がいなければ、ノモンハン は起きなかったかもしれない 。
ソ連 の勝利が保証されなかっただろうことは確かである。
小松原のおかげでそのとき赤軍 は戦闘に勝利 したように思える。もしそうでなかったならば、日本は全く実際とは違った戦略的行動を取ったかもしれない。20世紀の歴史は違ったものになっていただろうし、
ノモンハン の歴史自体、劇的に書き直さねばならないだろう。」
尾崎秀実ら日本指導層に入り込んだ日本人エージェントたちを使った南進論への政策誘導 や、
アメリ カにおける「雪作戦」 (エージェントの名前が
財務省 高官ハリー・ホワイトであることから名づけられた)が、通常、議論の中心を占める。その重要性は疑いないけれども、
陸軍内に一種の
対ソ恐怖症を植え付け 、対ソ北進論の勢いを削いだ
ノモンハン事件 は、それらに匹敵する大きな意味を持つのではなかろうか。
以下、同時期の欧州情勢について検証したい。
1939年春以来、
ソ連 のドイツへの態度は軟化したものの、
ダンチヒ 自由市をめぐる争いで
イギリスの「白地小切手」 を得た(と思った)
ポーランド の強硬姿勢に会い、
ヒトラー は袋小路に入り込む。
スターリン に最後の望みを託し、より踏み込んだ独
ソ連 携を目指すものの、交渉はなかなかはかどらない。
スターリン はより大きな「獲物」を得るべく、
ドイツと英仏を競い合わせ 、天秤にかけていたのだ。
8月19日もドイツのフリードリヒ・ヴェルナー・フォン・デア・シュー
レンブ ルク駐ソ大使と
モロトフ の交渉は物別れに終わり、大使は帰路に着く。ところが外交
儀礼 上、異例なことに、
モロトフ は大使を再度
クレムリン に呼びつける。そして、
独ソ不可侵条約 を締結するようソ連 政府に「指示された」(beauftragt、独公文書の表現)と伝えたのである。首相兼外相
モロトフ に指示できる「上司」はもちろん、この世にひとり、
スターリン しかいない。
一方、極東では
翌20日 、それまでの
局地的小競り合いとは一線を画す赤軍 の大攻撃がノモンハン で始まり 、日本軍は奮戦したものの壊滅的打撃を受ける。
モスクワでは
8月23日 、ドイツのヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相と
モロトフ が
独ソ不可侵条約 に調印し、全世界に衝撃を与える。
条約に付された東欧「分割」の秘密議定書でソ連 の同意を得たドイツは 、
9月1日にポーランド 攻撃を開始 、
ヒトラー の期待に反し、しかし、
スターリン の思惑通り、直ちに英仏が対独宣戦布告を行う。第二次大戦が始まったのだ。
コミンテルン 書記長ゲオルギ・ディミトロフの日記には、9月7日に
スターリン がその動機を赤裸々に語った記録が残っている。
この戦争は二つの資本主義国家群(植民地、原料などに関して貧しいグループと豊かなグループ)の間で、世界再分割、世界支配をめぐり行われている。我々は、両陣営が激しく戦い、お互い弱めあうことに異存はない 。ドイツの手で豊かな資本主義国、特にイギリスの地位がぐらつくのは、悪い話ではない。ヒトラー は、自らは気付かず望みもしないのに、資本主義体 制をぶち壊し、掘り崩しているのだ。
権力を握った場合と反対勢力でいる場合とでは、共産主義者 の態度は異なる。我々は自分の家の主人である。資本主義国における共産主義者 は反対勢力であり、そこでの主人はブルジョア ジー だ。
我々は、さらにずたずたに互いに引き裂きあうよう、両者をけしかける策を弄する ことができる。不可侵条約は ある程度ドイツを助けることになる。次の一手 は反対陣営をけしかけることだ 。
資本主義国の共産主義者 は 、自国政府と戦争に反対して、断固として立ち上がらねばならない。
この戦争が始まるまで、ファシズム とデモクラシー体制を対立 させることは全く正しかった。帝国主義 列強間の戦争時には、これはもう正しくない。資本主義国をファシスト 陣営とデモクラシー陣営に区別することは、かつて持っていた意味を失った。
この戦争は根本的変革を引き起こした。つい先日まで、統一人民戦線は資本主義体 制下の奴隷の状況を和らげるのに役立った。帝国主義 戦争という状況のもとでは、問題は奴隷制 度の絶滅なのだ 。今日、統一人民戦線や国民統一といった昨日までの立場を主張することは、ブルジョア ジー の立場に陥ることを意味する。こうしたスローガンは撤回される。
かつて歴史的には、ポーランド 国家は民族国家であった。それゆえ、革命家たちは分割と隷属化に反対して、ポーランド を擁護した。現在、ポーランド はファシスト 国家で、ウクライナ 人、ベラルーシ 人その他を抑圧している。現在の状況下でこの国を絶滅することは、ブルジョア ・ファシスト 国家が一つ少なくなることを意味するのだ。ポーランド を粉砕した結果、我々が社会主義 体制を新たな領土と住民に拡大したとして、どんな悪いことがあるというのか。
我々は、いわゆるデモクラシー諸国との合意を優先し、交渉を続けた。しかし、イギリスとフランスは我々を下男にしようとし、おまけにそれに対して何も払おうとしなかった。我々はもちろん下男になりはしなかった[、たとえ何も得られなくても]。
小松原師団
長スパ イ説に対しては、あまりに奇想天外だとして疑問を呈する向きもあるだろう。しかし、仮にスパイでなかったとしても、ここで示したように、
ノモンハン と
独ソ不可侵条約 は、
スターリン の戦略のなかで密接に関連していた。
そもそも自らが
陰謀史観 の持ち主であった
スターリン は、ここまで見てきたように、陰謀あるいは謀略を重視し、実際にも大きな成功を収めた。歴史はほぼ
レーニン の基本準則通りに進んだのである。
まず、極東においては、
スターリン の「完勝」といってよい。日本を中国での泥沼の消耗戦に引きずりこみ、
ノモンハン で陸軍に一種の対ソ恐怖症を植え付けたうえで、その後も、日本人エージェントを使った謀略が続けられ、日本の対外政策を反ソから反
英米 に仕向けることに成功する。それに呼応して、
アメリ カでも対日戦実現に向けた工作が展開され、好都合なことに、
フランクリン・ルーズベルト 大統領という「パートナー」の存在もあって、
スターリン の思惑通り、日米は激突することとなった。
しかし、
スターリン は欧州では英仏とドイツの戦争を実現させたものの、
予想外のフランスの早期戦線脱落 で予定が狂い始め 、最後の段階で
ヒトラー の対ソ先制攻撃を許すという決定的失敗を犯してしまった。資本主義国同士を戦争で
疲弊させたうえで、一番後にとどめを刺すつもりだった のに、
ソ連 は対独戦の主役を引き受けさせられ、第二次大戦参加国中、最大の犠牲をこうむる羽目になる。
スターリン の世界革命戦略は結局、画竜点睛を欠く結果となり、漁夫の利を得たのは、他国に比べると圧倒的に少ない犠牲で、
ソ連 と並んでもう一つの
超大国 となった
アメリ カであった。大戦で極度に疲弊した
ソ連 は、その戦後を最初から大きなハンディを背負った状態でスタートせざるを得なかった。